著者から読者へ
(翻訳)ペッレグリーノ・アルトゥージ『調理の知識とおいしく食べる方法』(3)
著者から読者へ
生命のおもな役割はふたつある。栄養を摂取することと種を繁殖させることだ。生存にとって必要なこのふたつに注目し、それについて考えをめぐらし、規範を提示してさらに満足できるようにしようとする人がいるが、そうした人は人生から悲しみを減らして、人々の役に立とうとしている。この作品は、そのような人の努力に敬意を払うものではないが、少なくとも心からの共感をそうした人から得られると期待してよいのではないだろうか。
第三版の序文としてこの短文に収めたい内容は、ある親しみのこもった手紙でみごとに語りつくされている。その手紙は詩人のロレンツォ・ステッケッティ氏が私に送ったものだが、その言葉を書き写すことにしたい。
それによると、人類が存続しているのは、自己保存と生殖への本能を人間がもっており、それを満たさなければならないと強烈に感じているからにすぎない。その要求を満たすためには快楽がともなわなければならないが、自己保存の快楽は味覚で感じ、生殖の快楽は触覚で感じる。食べ物を欲しなかったり、性欲を感じなかったりしたら、人類はすぐに絶えてしまうだろう。
味覚と触覚は、それゆえもっとも重要な感覚なのだ。もっと言えば、個人、そして人類の生活には欠かせないものだ。それ以外の感覚は補助的なものにすぎない。目が見えなくても、耳が聞こえなくても、生きていくことはできる。だが、味覚器官のはたらきは不可欠だ。
とすれば、感覚の序列において、生命とその継承にとって最重要なふたつがいやしいとみなされているのはどうしたことか。なぜ、ほかの感覚を満たす絵や音楽などを芸術と呼んで高尚なものと考えるのに、味覚を満たすものはあさましいと考えるのか。なぜ、ある人が優美な絵画を眺めたり、甘美な交響曲を聞きほれたりすると、地味に富んだ料理を味わう人よりもまさっているという評価を受けるのか。ひょっとして、感覚のあいだにも不平等があって、なにがあっても乗り越えられないとでもいうのか?
専制主義の王国を築くかのように、脳は体の全組織に働きかけているにちがいない。メネニウス・アグリッパの時代に優位に立っていたのは胃袋だったが、いまではその働きをしていないか、少なくともきちんと役割を果たしていない。脳が指示を出すあまたの器官のうち、適切に消化できる者がいるだろうか? 脳はすべて神経だが、精神神経症や神経衰弱になる。また、才能にあふれた知識人や芸術家の身長、胸囲、抵抗力、繁殖力は日々低下している。そして、人間はくる病、繊細さ、腺から栄養を得ることはないのに、コーヒー、アルコール、モルヒネから刺激を受けて自らを支えている。脳作用を司る感覚が生存を司る感覚よりもすぐれていると評価されているが、いまこそそのような誤った考え方をやめるときではないだろうか。
ああ、聖なる自転車からは、旺盛な食欲が沸いて楽しみが得られるが、落ちぶれようとしている者や落ちぶれた者はそれとは無縁で、理想とする芸術で萎黄病や消耗性疾患、ペスト腺腫になることを夢見ている! 空気、とらわれのない健全な空気で、血潮は赤くなり、筋肉は強靭になる。だから、恥じ入ることなく、できるだけよい食事をして、料理にもしかるべき立場を取り返そう。その結果、横暴な脳も得をすることになる。神経を病んだこの社会で、芸術的にも、ウナギの調理法をめぐる議論がベアトリーチェのほほえみについての論考と等しい重要性をもっていることが理解されるだろう。
人はパンだけで生きるわけではない。たしかにそのとおりだ。パンに合わせる料理も必要だ。そうした料理について、安く済ませる方法、風味をよくする方法、健康増進に役立たせる方法、こういったものは、芸術以外のなにものでもないと断言する。味覚の名誉を回復し、恥じ入ることなくすなおに味覚を満足させよう。だが、その最良の料理には、芸術とおなじように、きまりごとがあるのだ。
0コメント