健康のための若干の規準
(翻訳)ペッレグリーノ・アルトゥージ『調理の知識とおいしく食べる方法』(4)
健康のための若干の規準
ティベリウス帝が述べていたことによれば、人は三十五歳に達したら、医者の必要がなくなるという。この金言を広い意味でとらえるならばそれは事実だが、医者を手遅れになる前に呼べば、基本的には病気を克服し、早死にを避けられるのも事実だ。医者は、治せないにしても症状を改善してくれることも多いし、いつでも患者を励ましてくれる。ティベリウス帝の金言は次の点でも事実を述べている。人生の半分にさしかかった人は、自身のことについて多くの経験を積んでおり、なにが害になるか、なにが役に立つか、そして適切な栄養を摂取することで健康状態を保たなければならないことを理解しているものだ。健康状態を保つことは難しくない。器官に欠陥があったり、内臓に病気があったりすれば別だが。それに加えて、そうした年齢に達した人が確信しているように、予防、つまり病気の防止がもっとも大切だ。薬に期待できることはわずかなので、名医はあれこれと処方せず、簡単な指示だけを出すものだ。
繊細で神経質な人は、とくにやることがなくて心配性だと、思い込み以外のなにものでもない不幸を感じるものだ。ある人は、自分のことを話していて、かかりつけ医にこう言ったことがあった。「あれこれと不運に見舞われるのに、人がなぜ生きていけるのかわからないのです」。それでも、その人は、多くの人が経験するような多少の厄介ごとには見舞われたものの、それを乗り越えて長生きした。
このようなほかならぬ不幸な心気症の患者は同情に値する。こうした人はわずらわしいことから逃れられず、そこに絶え間なく大げさな恐怖を感じてしまうので、理を説いても無駄などころか、なだめようとする人の熱意で騙されてしまったと思ってしまう。こうした人が恐ろしい目つきで手首をつかんでため息をつき、身震いしながら鏡をのぞき込んで自分の舌を観察したり、夜、心臓の激しい鼓動に驚愕して突然飛び起きたりするのを、読者諸氏はたびたび目にするだろう。食事はそうした人にとって心配の種だ。食材になにを選べばよいかというのもあるが、食べすぎたと心配してなにか悪いことが起こるのではないかと不安になったり、過度な食事制限で体調を整えようとして、夜、眠れなかったり、悪夢にうなされたりしてしまうのだ。自分自身のことをいつも考えて、風邪を引いたり、胸の痛みに襲われたりするのではないかと心配しているので、すっぽりと身を包んで外出して、網で包んだ豚レバーみたいになってしまうだけでなく、ちょっとでも寒さを感じると、何枚も重ね着して寒さを防ごうとして、まるで玉ねぎのようになってしまう。だから、こうした人に効き目のある薬はないし、心ある医者であれば次のように言うだろう。「気晴らし、気晴らしです。体力が続く限りは、頻繁に屋外を散歩しなさい。お金があるなら、連れ立って旅行に出かけなさい。そうすれば、よくなるでしょう」おわかりいただけるように、このくだりは暮らし向きのよい階層に向けて述べている。裕福でない人は、心ならずも成り行きに身を任せざるをえないので、忙しくもつつましい生活が強靭な肉体をつくり、健康の維持に役立つと考えて気分を晴らすしかないのだ。こうした前置きをしてから、衛生についての一般的な話題に移ろう。だが、いくつかの節制に言及させてもらいたい。この節制は、昔から科学的なお墨付きを得ているが、十分には知られていないものだ。第一に、衣類についてだが、これは母親たちに向けて述べておきたい。幼児期から子どもの服装は軽くしなさい。そうすれば、成人したときには、気候の突然の変化にそれほど影響を受けず、風邪や気管支炎にかかることも少なくてすむだろう。そして、冬期にアパートのストーブを十二度から十四度よりも上げなくても、昨今、罹患する人が多い肺炎から身を守れることが多いだろう。
多少の冷気がやってきたくらいで、すぐには厚着をしてはいけない。ちょっとした上着があれば十分で、それを季節の変わり目の変化に合わせて着たり脱いだりしながら、本格的な寒さの到来を待てばよい。春が近づいたら、疑いなく真実を述べている、次の格言を思い出してもらいたい。
四月には薄着をするな
五月にはちょっとずつ
六月には上着を放り投げろ
だが、質に入れてはだめだ
必要なことがあるかもしれない
日当たりがよく、風通しがよくて、健康に生活できる家に住むように努めよ。太陽の光が入り込むところからは、病は去っていく。憐れむべきは、薄暗いところで客人を迎える女性だ。そうした女性の家を訪問すると、家具につまずいたり、どこに帽子を置いてよいのかわからなくなったりしてしまう。ずっと薄明りのなかで生活して、開けた屋外を歩かないという習慣でいた結果、さらには当然ながら女性はワインをあまり飲まず、肉をほとんど口にしないで野菜やお菓子を選ぶので、そうした女性のほおは赤みがさしていない。ほおに赤みがさすのは、良好な健康状態のあかしなのだ。さらに、肌にはまさに血のような赤みと牛乳のような白さからくる美しさはなく、肉づきはぶよぶよしていてしまっておらず、顔つきは聖木曜日に聖体安置所に連れてこられる雄牛から生まれた牝牛のようだ。とすれば、女性のなかにヒステリーを起こしたり、神経症になったり、貧血になったりする人が多いのは驚きだろうか?
家族に嫌がられたくないならば、習慣的になんでも食べるようにするべきだ。いろいろなものを拒否する人は、ほかの人や家長のひんしゅくを買ってしまう。その人に合わせることを余儀なくされて、料理の数を増やせないのだから。胃袋の奴隷になってはいけない。この気まぐれな臓器はちょっとしたことで気分を害するが、とくに必要以上に食べる人を喜んで苦しめているようだ。食べすぎは、粗食に甘んじる必要のない人にとってはよくある悪癖だ。よく聞いてほしい。胃袋のおかげで、吐き気をもよおしたり、摂取した食べものの味がのどに戻ってきたり、いやな酸っぱさを感じたりするので、食べすぎの人は病み上がりの人向けの食事をせざるをえなくなるのだ。こうした場合、暴食に思い残すことがないのであれば、戦いを仕掛けるべきだ。肉弾戦を演じて、勝利を求めよ。とはいえ、自然の本性が断固として提供された食べものに反乱を起こすのであれば、そのときには勝ちを譲って戦いを中断するしかない。
筋肉を使う運動をしない者は、人よりも質素な生活を送るべきだ。この点については、アーニョロ・パンドルフィーニが『家政論』で述べている。「空腹やのどの渇きを感じないかぎり、飲食をひかえ、食べない、飲まないというのはとてもよいことだと思う。これは身をもって知っていることだ。消化するというのは難儀なことなので、私のような年寄りには、次の日になってようやく消化したと思えるのだ。息子たちよ、短いが、包括的であますことのないこの原則を遵守せよ。なにが毒になるかをよく知っておいて、それから身を守るようにせよ。そして、なにが体によいかをよく知っておいて、それを実行し、守り続けるようにせよ」
朝、目が覚めたら、なにが胃に適しているか考えてもらいたい。胃がまだ完全に解放されていないと感じるならば、牛乳なしのコーヒーを一杯だけにしておけばよい。その前にコーヒーと混ざった水をコップ半分飲めば、中途半端な消化で残っているものがはやくなくなるだろう。一方、体調が万全で、(お腹がすいた気がするだけということもあるので、騙されないように忠告しておくが)食べ物をすぐに欲することもあるだろう。それは健康と長寿を期待できる兆候なのだが、その場合には、好みに応じて、牛乳なしのコーヒーとバターを塗ったクロスティーニをひとつ、そうでなければ、牛乳入りのコーヒーもしくはココアをとるのがよい。量が少ない液体でも消化には四時間ほど必要だが、それがたったら、現代の習慣に従って、十一時もしくはお昼にとる、しっかりとした食事の時間になる。
この食事は、一日で最初の食事なので、いつでも食欲をそそるものだ。そのため、空腹を完全に満足させないほうがよい。そうしないと夕食を楽しめなくなってしまう。活発に動くか、肉体を使う仕事をするなら別だが。食事と一緒にワインを飲むのは好ましくない。赤ワインは消化によくないし、白ワインも結局はアルコールなので、頭のはたらきを妨げる。頭を使わなければならない場合だが。
午前中の食事は混じりけのない水といっしょにとり、最後に小さなグラスに一杯か二杯のワインを瓶から注いで飲むとよい。そうでなければ、牛乳の有無にかかわらず紅茶を飲んでもほとんど変わらないはずだ。このようにすれば、胃に負担をかけない。繊細であたたかい食物は消化をうながしてくれるものだ。
夕食は一日でもっとも重要な食事で、家族のお祭りのようなものだが、とくに夏よりも冬にその出費がかさむ。というのも、気温が高いと軽くて消化のよい食べ物を欲するものだからだ。さまざまな種類の材料を自然界の二つの領域から持ってきて、そのうち肉を重要な要素とするべきだ。そうすれば消化が促進されるが、辛口に近い熟成したワインを一緒に飲む場合にはとくにそうだ。だが、満腹にならないように、そして下痢の原因になるような食べ物に気をつけてもらいたい。また、飲みすぎて、胃を洗い流しすぎないようにしてもらいたい。この点について、何人かの衛生学者は、夕食中にも水を飲んで、最後にワインを提供するようにすすめている。その気があれば従ってもよいが、そこまでするのは難しいと私は思う。
よい方針として、夕食の最初の一口で吐き気がするならば、そこでやめてためらわずにデザートにするべきだ。ほかにも、消化不良や過剰摂取を避けるために、量が多くて消化によくない食べ物をとった翌日には、軽い食事で済ますこともよい習慣だ。夕食の最後にジェラートを食べるのは悪くないどころか、よいことだ。なぜならば、胃が消化にとって都合のよい温度になるからだ。だが、いつでも、のどがかわかないかぎり、食事と食事のあいだに水分をとらないようにするべきだ。そうすれば、消化を妨げることはない。消化というのは、純然たる化学の作用なので、その自然現象を邪魔しないようにしなければならない。
昼食と夕食のあいだには、七時間の間隔をあけるべきだ。これだけの時間が消化しきるのには必要だが、それどころか消化の遅い人にはそれでも十分ではない。そういうわけなので、十一時に昼食をとるならば、夕食を七時にもってくるのがよい。じつのところ、次に食事をするのは、胃がひっきりなしに助けを求めてくるときまで待ったほうがよい。いずれにしても、胃からの要求はすぐに切実なものになる。屋外を散歩するか、控えめで心地よい運動をして、胃をそそのかせばよいだけだ。
すでに引用したアーニョロ・パンドルフィーニは言っている。「運動は生命を持続させ、体温を上昇させ、生まれながらの活力を刺激し、過剰な衝動と悪い気分を取り去ってくれ、肉体と精神の美点をあらゆる面から強化してくれる。運動は若者にとっては必要で、老人にとっては役に立つ。運動をしないのは、健康で健全な生活を望まないようなものだ。伝えられているところによると、ソクラテスは家のなかで踊ったり、跳ねたりして、運動していたという。控えめで、落ち着いた幸せな生活が、いつでも健康にとって最良の薬だ」
それゆえ、節制と肉体運動が健康のかなめなのだ。しかし、注意してもらいたいが、過ぎたるは猶及ばざるが如し、有機体を失い続ければ、それを補う必要がある。栄養のとりすぎで多血症になっているとしても、反対にやりすぎて栄養不足になって体を駄目にしないよう気をつけてもらいたい。
青年期、言い換えれば成長期には、栄養がたくさん必要だが、成人、とくに老人には、節度のある食事が長生きするために不可欠な美徳だ。
我々の父の世代の風習をいまだに守って正午もしくは一時に昼食をとる人には、非常に古い格言を思い出してもらいたい。汝ハ昼食後ニハ留マリ、夕食後ニハ散策スル。あらゆる者は、口のなかで最初の消化をするのだから、歯を大切にするように口を酸っぱくして言っておきたい。食べ物を適切に咀嚼しながら唾液の力を借りれば、台所で刻んで砕くよりもよく消化できるようになる。かみ砕かなくてもよさそうな食べ物が、胃にもたれてしまうことがある。胃が仕事の一部を奪われて憤慨しているのではと思うかもしれないが、実際には消化に悪いとされる食べ物の多くは、よくかみ砕くことで消化にもよくなり、もっとおいしく食べられるようになる可能性がある。
この規範の導きにしたがって胃を適切に管理できれば、弱った胃を壮健な胃にできるし、もともと丈夫ならば、薬の助けを借りずにその状態を維持できる。下剤は遠ざけるのがよい。下剤を頻繁に使うとろくなことにならないので、まれにどうしても必要なときにだけ頼るべきだ。多くの場合、やっかいな問題は自然の本性、さらにおそらく道理に従って、我々がどう対処すればよいのかを教えてくれるものだ。私の親友のシビッローネは、消化不良になったときには一日か二日、なにも食べずに過ごし、消化するために屋根の上に行っていた。だから、嘆かわしいのは甘やかす母親だ。こうした母親は母性としての気持ちが過剰なあまり、子どもの健康にずっと気を配っていて、ちょっとでも元気がなかったり、排泄の調子が悪かったりすると、いつでも飛躍して心を痛めるが、それはほとんどの場合、思い込みにすぎないのだ。さらに、本能に従って行動させることもしないが、活発な年齢で生命力にあふれた時期には、自らの本能に従うだけで驚異的な能力を身につけられるものなのだ。
リキュールは、気をつけて使わなければ乱用となってしまうので、それを使うことはあらゆる衛生学者が非難しており、人体に取り返しのつかない損害をもたらす。例外を認めてよいのは、コニャックでつくった少量の軽いパンチ(ラムの香りを加えてもよい)を冬の寒い日の晩に飲むことだけだ。なぜならば、夜のあいだに消化を促進するので、翌朝には胃が軽くなり、口もさわやかになるからだ。
よくないこと、かなりよくないことは、酒に負けることだ。そうすると、だんだんと食べ物を受けつけなくなり、ほとんど酒からだけ栄養をとるようになる。そうすると、世間からの目は厳しくなり、あざ笑いの対象になり、危険視されるやっかい者になってしまう。ある商人は、町に到着するたびに通りの角で通行人を観察して、鼻の赤い人を見つけるやいなや良質なワインをどこで買えるかたずねていた。この悪習は顔によく出るので、飲みすぎという烙印を押されてしまうだけでなく、笑いの種にしかならないような―まるである料理人が、主人たちが夕食を待っているあいだに、流しの上にフライパンを持ってきて狂ったように下に風を送っていたような―ある種の見物を演じてしまうこともある。当然、こうした大酒飲みがうつろな目をして、巻き舌の発音が不明瞭なまま、もめごとに発展しかねないようなことをたびたびしたり、言ったりするのを見れば、心臓の鼓動が速くなり、喧嘩にならないか、さらには喧嘩から刃傷沙汰に発展しないか心配でたまらなくなるだろう。そんなことは何度も起きているのだ。この野蛮な悪習にとらわれ続けると、問題はさらに切実になり、もはや救いようのない飲んだくれになってしまう。こうした飲んだくれは、例外なく惨めな結末を迎えることになるのだ。
刺激物の力を借りて食事を遅らせようとする人も称賛できない。というのは、消化をうながそうとして、外部からの刺激を利用することに胃を慣れさせてしまうと、胃の活力が削がれ、さらに胃液の作用が損なわれてしまうからだ。
睡眠と休息には確実に関連した役割があり、個人ごとの必要に応じてとらなければならない。人はみなおなじようにつくられているわけではないからだ。ときには、ある人がどうにもはっきりしない全身の不調を感じていて、その理由がわからないときがあるが、それが十分な休息がとれていないことから起きていることもある。
一連の規準を気軽にもったいぶらずに述べてきたが、それを終えるにあたって、二つの格言を紹介しておく。この二つの格言は外国の文学作品から引用しているが、読者に幸運と長生きを願うことにしたい。
英語の格言
Early to bed and early to rise
Makes a man healthy, wealthy and wise
早寝早起きをすれば
人は健康で、豊かで、聡明になる
フランス語の格言
Se lever à six, déjeuner a dix
Diner à six, se coucher à dix,
Fait vivre l’homme dix fois dix
六時に起床し、十時に朝食をとり、
六時に夕食をとって、十時に就寝すれば
人は十の十倍生きられる
詩人ロレンツォ・ステッケッティ(オリンド・グエッリーニ)に私の料理本の第三版を一冊送付して贈呈したが、その手紙は以下のとおりだった。
親愛なる貴兄、
貴兄は想像もできないでしょうが、貴兄の著書は喜ばしい驚きでした。私のことに触れていただけるとは! 当方は貴兄の作品を熱烈に支持する最古参の使徒で、貴兄の作品が最良のもので、実用性や優雅さでも他の追従を許さないと考えています。これは、いずれも出来の悪いイタリア語の作品だけでなく、外国の作品を含めての考えです。貴兄はヴィアラルディがピエモンテで書いたものを覚えていますか?
「グリッロのブレゼ ― 羽をむしったかしわをあぶるが、湯通しはしない。ジャンボンとみじん切りしたセイヨウシュロを刺し込んだ牛の腰肉を旅行かばんのように糸をかけて、バターといっしょにブレジエールに入れ、頻繁にラードを入れて乾かないようにする。胸腺と膵臓を二つ血抜きして、洗ってから、栓の形の大きなクネルの詰め物にする。これは腰肉を巻くためのものだ。腰肉に火が通ったら、塩を適量加えて、蕃茄のソースを注いでヴェールくらいの厚さにする。ガルニチュールにさいの目に切ったムロンとクルジェットを添えて、熱いうちに鉢に盛って出す」
これはヴィアラルディの本にあるレシピではありませんが、用語はすべて使われているものです。
料理人の王様や女王様、ほかの偉大な料理人については、フランス語からの翻訳か雑多な編纂物しかありません。実践的で家族のために使えるようなレシピを見つけ出すためには、手探りで推測して探して、失敗を犯さなければならない状況です。ですので、アルトゥージはたいへんありがたいのです! これは合唱のような声です。これはロマーニャから貴兄のもとに届く声ですが、そこは私が熱意を込めて貴兄の書籍を推奨した場所です。あらゆる場所で貴兄の書籍への賛辞が寄せられました。親戚のひとりは私に書いてよこしました。「とうとう料理の本が手に入るようになりました。人食いの本ではなく。ほかの本は、あなたの肝臓をとって、薄切りにしてください、などと書いているのですから」この親戚は私に感謝していました。
私も料理の本をつくって、エプリ社の手引き書に入れてもらうという考えをもっていました。本をつくりたかったのです。いうなれば、大衆に向けてです。ですが、時間が若干足りなく、若干の予算の問題があって(注一)、実験的な部分の実現が困難になり、とうとう貴兄の本が出版されると、私はその気を完全に失ってしまいました。その考えはなくなったものの、集めた料理本はいくらか手元に残っていて、正餐室の書棚に整然と陳列しています。貴兄の本の初版は、製本しなおして、白紙をとじ込み、多くのレシピを追加(?)して、上座とでもいうべき場所に置いてあります。第二版は日常の参考用として使っていて、第三版はすぐに初版に上座を譲らせることになるでしょう。こちらは著者のサインを誇っているのですから。
このように、貴兄もご存知ですが、私は貴兄の作品をしばらく前に知り、それ以来、作品を高く評価し、推奨してきました。貴兄はそれゆえ、寛大にも送付していただいた著書を私が歓喜して拝受したということを知っていただきたいのです。以前は、私の胃だけが貴兄へ適切な感謝の念を感じていました。いまでは、私の魂が胃に加わりました。ですので、卓越した貴兄に贈呈品と寛大さへの深い感謝を申し上げますが、これは当然あるべき謝意と評価の域を超えるものではないのです。
貴兄の信奉者
O・グエッリーニ
ボローニャ、九十六年十二月十九日
現在では高名なパオロ・マンテガッツァ先生の寡婦となっているマリア・ファントーニ伯爵夫人は、まったく予期せぬことに、下記の書簡を寄せてくれた。この書簡は、私の労苦へ報いてくれるありがたいものとして、保管している。
サン・テレンツォ(ラ・スペツィア湾)
九十七年十一月十四日
アルトゥージ様
厚かましさをお許しいただきたいのですが、あなた様に申し上げなければならないことがございます。それは、あなた様のご著書が私にとってどれほど役に立ち、貴重なのかということです。そう、貴重です。と申しますのも、私がつくった料理で一皿たりとも、あまりうまくいかなかったということはありません。むしろいくつかは非常に優れていて、賛辞を受けるに値するものです。そして、その功績はあなた様のものですので、そのことを申し上げることで心からのお礼をさせていただきたいと考えました。
私はあなた様のマルメロの実のゼリーをつくりました。これはアメリカ大陸に届く予定ですが、私のブエノス・アイレスにいる継子にすでに発送しました。そこで正当に高い評価を受けることを私は確信しています。そして、あなた様はわかりやすくお書きになり、説明してくださっているので、レシピを実際に試してみるのはとても楽しく、深い喜びを感じます。
これがあなた様に申し上げたかったことで、そのためにお手紙を差し上げることにいたしました。
私の主人はぜひよろしく伝えてもらいたいとのことでした。
そして、私は感謝の気持ちを込めてあなた様と握手したつもりでおります。
マリア・マンテガッツァ
以下は、主人が友人たちを晩餐に招待したときの料理の喜劇、もしくは惨めな料理人の絶望だ(その光景は現実のものだが、名前は変えてある)。
主人が料理人に言う。
「フランチェスコ、注意しろ。カルリ夫人は魚介類を食べない。新鮮なのも、塩漬けにしたのもだ。魚介類由来のにおいも受けつけない。知っているだろうが、ガンディ侯爵はヴァニラの香りを嫌がっている。ナツメグや香辛料には注意しろ。チェーザリ弁護士はこうしたにおいを嫌悪している。デザートをつくるときに苦いアーモンドは入れるな。マティルデ・ダルカンターラ女史が食べられないからだ。知ってのとおり、親友のモスカルディは自分の料理にハム、ラード、塩漬けの豚バラや脂身をけっして使わない。なぜなら、こうしたものを食べると腹にガスがたまるからだ。というわけで、この晩餐にそういう材料は使わないで、体調をおかしくする人がないようにしろ」
フランチェスコはあぜんとして主人の言うことを聞いていたが、最後に叫んだ。
「ほかにも使わないほうがよいものがありますか。お主人さま。」
「じつのところ、客の好みは知っていて、できればほかにもいくつか注意してもらいたいことがある。ある人は、去勢した羊だけは大の苦手で、獣脂がきついと言っている。ほかの何人かは子羊が消化によくないと言っている。それから、数人が科学的な見地から私に断言しているのだが、キャベツとジャガイモを食べると、鼓腸になるとのことだ。つまり夜じゅう体が膨れて、うなされるというわけだ。まあ、こうしたことは放っておいて、上へ行こう」
「ああ、わかったよ」料理人は付け加えて、ひとりごとをぶつぶつと言った。「客のみんなを満足させて、腹が膨らまないようにするために、マルコ(その家のロバ)が住んでいるところへ行って、ありがたいお知恵を借りることにしよう。そして、マルコが出したものが入っているお盆をもらってこよう。調味料はなしで」
注一 これは嘘だ(アルトゥージはそう言っている)。
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